認知症の事故について
「気がついたら事故を起こしていた」、そして事故当時のことは覚えていないとの趣旨の供述を続けたという記事があった。
容疑者は昨秋、運転免許の更新時に改正道交法に基づく認知機能検査を受け、認知症ではないとの結果が出ていた。しかし、事故を起こすまでの間に認知機能が低下した可能性が高い。家族によると、容疑者は目立った持病などはなかったが、たびたび物損事故を起こしていたという。そのため家族から運転しないよう再三説得されていたという事実がある。
その説得に容疑者が応じることはなかった。
そして事故当日は、運転に反対する家族の目を盗んで出かけ、若い命を無残に奪う結果を引き起こした。後悔してどうにかなる問題ではない。
容疑者が物忘れをしたり、車をぶつけて帰ることが多くなったため、家族は運転を止めてくれと言っていたが、同時に家族は、車を取り上げることは「おじいちゃんを家に閉じ込めることになる」と迷いがあったという。さらに「認知症がそこまで進行しているとは思わなかった。」とも言っている。
運転するなという声に容疑者が応じなかった理由の一つは、運転してはいけないという家族の言葉に、本来持つべきだった危機感が欠けていたからではないか。そしてそのような薄弱な問題意識は、世間一般にも見られる傾向で、その結果が尊い人命を奪ことに結びついているということを重大な事実として認識してほしい。
認知症専門医の中にも、「認知症だからといって運転ができないわけではないから、認知症という診断だけで免許を取り上げるのは問題だ」とバカげたことを言っている輩もいるが、そんな悠長なことを言っている暇がない。そもそも本ケースの状況を見てわかることは、免許更新時の検査や、認知症という診断を受けた後の後追い対応でも、問題は何も解決しないということだ。
幼児や子供たち、将来ある若者たちが、認知症度ラドライバーの運転事故により、毎年たくさんの命が奪われていることを考えると、認知症になったから運転しないのではなく、認知症になったら、正常に運転できるかできないかの判断能力に欠けるという意識をもって、その段階では運転する・しないの正しい判断はできなくなることを前提にして、ある年齢に達したら運転から勇退するという国民意識を育てることが重要である。
そのためには、高齢期の生活手段となる移動手段については、個人の責任でどうにかするのではなく、各自治体の責任で整備する必要がある。そのためにはコミュニティバスを走らせたり、「介護予防・日常生活支援総合事業」の中で、送迎サービスを行うなど、いくらでも方法は考えられる。
地域包括ケアシステムとは、そうした仕組みを作ることであるし、この部分に予算をつけることを意味するものだ。早急なる整備を望みたい。