自宅での看取り介護が必要である理由
我が国では昭和20年代まで自宅で亡くなる人の割合が、全死者数の8割を超えていた。
調査データが存在する範囲で言えば、その数値は昭和26年をピークに減少が続き、医療機関において死亡する人の割合が年々増加し、昭和51年にその数値が自宅で死亡する者の割合を上回り、現在、医療機関における死者数は、全死者数の8割を超える水準となっている。
国は多死社会に備え、在宅でのターミナルケアを推進するために、2006年(平成18年)に診療報酬上の評価として、在宅療養支援診療所が設けたが、それにより在宅で亡くなる方の割合も徐々には増えている。
同時期に特養の介護報酬に看取り介護加算が新設されたことをきっかけに、他の介護施設や特定施設・グループホームにも看取り介護・ターミナルケアに関する加算評価がされるようになったことで、それらの施設で亡くなる方の数も増えている。しかし医療機関で亡くなる人の割合が8割を超えていることに変わりはない。
しかしこの割合は、今後大きく変化せざるを得ない。
死者数の増加に比例して、医療機関のベッド数が増えるわけではなく、むしろ減ることになるために、医療機関で亡くなる人の割合は、必然的に減っていくのである。そのため自宅や介護施設、居住系施設で亡くなる人の割合が増えることになる。
それは好む好まざるにかかわらず、身内の最期の瞬間を、医療機関以外の別な場所で看取らねばならない人が増えるという意味だ。
特養や特定施設、グループホームは看取り介護を行うことが常識であると考えねばならないし、それは単に看取り介護加算を算定するだけの意味ではなく、終末期を迎えた方を最期の瞬間まで安心・安楽の環境を保ちながらケアするという意味であることを理解せねばならない。そこに家族が関わりながら、旅立つ人々の人生の最終ステージの物語を紡いでいくことが、それらの施設に求められていくことも見据えていく必要があるだろう。
自宅が入所施設の近くにある場合、長い期間、特養に泊まり込んで看取ることができるならば、母親を自宅に引き取って看取ることも可能なのだろうか。
しかし長年別居していて、家庭を持っている方が、夫の身の回りの世話をはじめとした家事をしながら、自宅で看取り介護を行うことは、介護施設に泊まり込んで、職員の支援を受けながら看取り介護に関わることとは根本的に違いがあるだろうと思う。
昭和20年代に自宅で家族の旅立ちを看取ることができた大きな理由は、子供の数が多かったからという理由だけではなく、親と同居している子が多く、同居世帯を看取り介護の拠点にできたという意味があるように思う。
はたして一人暮らしの自分の親を、別居している子がどこで看取ることができるだろうか。おそらく看取り介護が必要になったことを理由に、自分の自宅に親を引き取ってケアできると考える人は多くはないだろう。むしろそれまで暮らしていた親の自宅で、家族が関わりながら看取ることはできないかと考える人が多いのではないか。
そうすると、今後在宅での看取り介護・ターミナルケアを増やしていくためには、一人暮らしの高齢者に対し、子供をはじめとしたインフォーマルな支援者がどう関わるかということが重要な課題となる。その中には、「終末期の支援行為を自分ができるのだろうか」という心理的なバリアの克服という問題も含まれるだろう。
そうであれば今後ピークに達する多死社会に備えて、今から我々関係者は、地域社会に向けて、自宅での看取り介護・ターミナルケアの際に、医療の専門家でも介護の専門家でもない家族であっても、できることがたくさんあり、特別なことをせずとも、自宅で家族の旅立ちを看取ることは可能であるといことをきちんと啓蒙啓するとともに、在宅の看取り介護・ターミナルケアの際にどのような社会資源を利用できるのかを、広く周知する必要があるだろう。
在宅でのターミナルケアを専門としている医師の存在も知らない人は多いし、訪問看護師や介護支援専門員等が多職種連携チームを組んで支援してくれることを知らない人も多い。「多様化する看取り介護の場所と方法」という記事の中で紹介している、非接触バイタル生体センサーなどを利用して遠隔で安否確認ができる見守りシステムも知らない人が多い。そうした機器を活用して、地域の医療機関(基幹医院、かかりつけ医など)、民間企業(タクシー会社・弁護士など)と家族を医療の視点でつないで、在宅での看取り介護支援を行っているワーコンプロジェクトのような会社もある。
こうした情報を地域に発信しながら、医療機関で亡くなることが当然だという意識を変えていく必要があるのではないだろうかと思う。