Allo介護の不思議な世界

こんにちは!介護ブログ管理人です。 この記事は介護は難しい、わかりにくい方に向け、初心者でも簡単に紐解いた解説をします。 介護保険は、3年毎に改正されます。この記事を読むと、最新の介護事情や歴史に触れることができます。 とは言え、一体どうしたらいいかが分からない…というあなたのために、一日一つブログをアップし解説したいと思います。 この記事を読み、実践する事であなたも介護の達人になりますよ! ですので、ブックマークをつけて、じっくりと読み進めながら取り組まれてみてください。

介護保険制度に自立支援という妖怪が存在している!

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自立支援という言葉を使えば、誰もが良いことを行っていると勘違いしてしまう。自立支援という言葉を冠にして行われる行為は、すべて「善」であると認められてしまう傾向さえ散見されている。



しかし介護保険サービスが対象にしているのは主に高齢者である。それも75歳以上の後期高齢者の方がサービス利用の中心層である。心身機能の低下という自然現象の中にいるそれらの人達が、自立しなければならないという強迫観念を持ちながら、まるで誰かにお尻をたたかれるように、いつまで頑張り続けなければならないのだろうか。



もちろん、自立するために頑張ることを否定するつもりはないが、自立支援という概念が高齢期を生きる人たちに最も求められているという考え方にはついていけない。



自立支援を何よりも大事であると考える人たちは、人が人に頼ることは許されない行為だとでもいうのだろうか。わたしはそうは思わない。人は支えあって生きる知恵を持った生き物であるからこそ尊い存在なのだ。



誰かに頼らざるを得ない時期や期間があって当たり前なのが、生きるということではないのだろうか。その時に頼ることができる人がいること、頼る人に手を差し伸べて助けることができる人がいることが、人生を豊かにするためには必要不可欠な要素ではないだろうか。自立できない時期にも、共立できるからこそ人生は豊かになるのではないだろうか。



自立支援という概念があることは大事だし、その具体策あることによって国民の福祉の向上につながることは否定しないが、一方で介護支援は、日常生活が成立することだけではなく、QOL=暮らしの質の向上を目指していたはずである。



暮らしの質の向上には、個別性に対応した生活支援という視点が欠かせなくなるが、そこでは人に頼らざるを得ない人をいかに支えるかという具体的方策が欠かせなくなり、しばしば自立以上に「共立」が求められてくることが多くなる。自立支援を唯一無二の価値観とする人々は、そうした視点を失ってしまわないのだろうか。



そんなことはないという声が聞こえてくるが、介護施設関係者の中には、自らの所属する施設を「自立支援施設」などと冠付け、自立支援介護という名のもとに、その価値感を利用者にも押し付けようとする人がいたりする。そこでは排泄自立の名のもとに、適切な排泄姿勢の教育も行っていない職員により、便器への強制移譲が行われて、長時間便器に座らせて放置するというような、自立支援という名の脅迫と虐待が行われていたりする。



経営者や管理者が唱える自立支援の概念と、現場職員の概念の不一致により、自立できない高齢者を「怠け者」とか「やる気のないだめな人」と軽蔑する行為や、揶揄したりする行為がみられる。そして自立できない人はダメな人であるという価値観にどっぷり浸かってしまう人が出現したりする。



そうした価値観を持つ人の行き着く先は、「重複障害を持つ人は、社会悪だ」・「障がい者なんかいなくなればいい」・「意思疎通が取れない人間を安楽死させるべきだ」として19人の人を刺し殺し、多数の人にけがを負わせた、「やまゆり園事件」の植松被告の考え方そのものになってしまうのではないのか。そこまで極端ではなくとも、何らかの心身の障がいを持つ人を、健常者より低い価値の存在としか見なくなる恐れがあるのが、「自立支援偏重主義」である。



そもそも自立支援は目標の一つとしては成立するが、自立だけを唯一の価値観として、自立支援を最上位の目的であると決めつけることは「脅迫」でしかない。



しかし世の流れはますます自立支援偏重に向かいつつある。2021年の介護保険制度改正・報酬改定のテーマは、「自立支援介護の確立」である。それは給付抑制という影のメインテーマを糊塗するために作られた耳触りの良いテーマでしかないのに、それに踊らされ、国の示したデータを鵜呑みにして、それに迎合する多くの介護関係者を生み出しつつある。



自分の頭で考えられない人が、そうした洗脳介護に染まっていくのである。介護関係者は人が良くて、何でも国の言いなりだといわれる実態と結果が、そのことと深くつながっているが、それはとても恐ろしいことのように思えてならない。



自立支援より大事なことは、人として当たり前の生活とは何かということだ。介護の場の常識が世間の常識と一致することだ。



自立支援施設を標榜する施設で、一生懸命機能訓練に汗を流している人が、その汗を流す入浴機会が週2回しかないなんて言う非常識をなくすことだ。大昔につくられた週2回入浴支援しておればよいという基準に洗脳されている人たちが唱える「自立支援」によって、数々の悲劇が生み出され、それを見逃し続けることをなくすことこそ一番に求められることではないのだろうか。



人間は一つの目的だけで表現できない多様性の中に生きるからこそ、その人生は豊かになるのである。自立型と謳う介護施設は、その多様性を喪失させてしまうだけのように思えてならない。



せめてケアマネジメントをはじめとした、我々の対人援助の視点は、頑張らなくてもよい介護を模索しなければならないのではないだろうか。



施設サービスは多様性のある個人の暮らしを豊かに支援する目的があるはずなのに、「自立支援」を最高の価値観であると考え、「自立支援施設」と冠付けて、高らかにそのことを唱えている人を見ると滑稽にしか思えないが、滑稽な人たちが作り出す、脅迫介護が悪意のない状態で続くとしたら、これは笑い話では済まない。



暮らしの場にキャッチコピーはいらないということに気が付くべきだ。目標となる理念の一つをキャッチコピーのように掲げるのは、大いなる誤解の始まりと思う。