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新型コロナウイルスが蔓延し、普段通りの生活ができない皆様が居るなかで自分のブログの立ち位置が分からなくなってきました。
誠に勝手ながらしばらく休みたいと思います。
ご愛読していただきありがとうございました。
新型コロナウイルスなど感染症に対する正しい知識を!
以前、施設の手指の消毒は、手洗い後、薬液が入ったぬるま湯に手を浸す方法、ベースン法が主流であったが、感染予防対策に有効な方法ではないとして、直接薬液を手に吹きかけるラビング法に変わっていった。そのため薬液の変更だけでなく、どこの施設でも自動手指消毒器を購入し備品配置した。
ただ手指の消毒法自体は明らかにラビング法が優れており、この方法がスタンダードになっている。
昨今問題となっているコロナウイルスにしても、一番の対応は環境の清潔と手洗いやうがいといった日常の対応である。その次に環境の消毒除菌というものが位置づけられる。
特にMRSAなどは耐性菌だから、あまり除菌、消毒に視点を置きすぎると新たな耐性を生まないとは限らない。
しかし現場で手洗い、消毒の対応を見ていると、これで良いのかと考えてしまう施設や医療機関が良くある。
手を洗う行為を省いて、消毒液を吹きかけるだけで次の行為に移る場合などだ。
コロナウイルスにして正しい手洗いを行うことで、ほとんど完全に近く洗い落とせるものだが、それにはかなり時間をかけて流水で手洗いしなければならない。
そこである程度、手を洗って、菌を落とした後、完全に除菌する為に消毒液を手にすり込むことが基本となるのだが、手洗いという行為を省くことによって、手のひらに残る菌数はかなり多いまま消毒行為を行うことになる。
これは様々な耐性菌を増やす原因になるといわれている。手を洗って、消毒、この手順を間違いなく実行してもらいたいと思う。
介護人材が枯渇するワケ!
とりあえず人を増やしてほしいという切実な訴えにより、人集めに躍起になっている場所へ仕事ができる優秀な人材が張り付くとでも思っていますか?仮に人が張り付けたとしても定着するとでも思っていますか?
そもそもあなたの職場の人手がいつも足りない原因は何でしょうか?
人が張り付かない、人が定着しないという原因の検証作業をきちんとしていますか?
あなたの仕事に余裕が生まれるためには、人手がもっと必要だと言いますが、あなた自身はあなたに続く職員をきちんと育てているますか?あなた自身が新人職員のバリアになって、入職してきた職員が次から次へと辞めていく原因になっていませんか?
今一度とあなたと、あなたの職場の本当の姿を見つめなおしてほしい。
新卒者が今、あなたの職場に入職して新人教育を受けているかもしれません。例えば4/1に初出勤した職員は昨日でまだ10数日しか働いていません。そんな新人さんが、日に日に元気を失っていませんか?日に日に無表情になっていませんか?
介護人材不足が叫ばれていますが、人材を失わせているのは少子高齢化だけではなく、本当の介護をしない介護サービスの場そのものです。人の育て方・教え方を知らない介護事業者そのものです。
介護事業者のシステムや、そに居る職員が人材をつぶしているのです。これを変えなければ介護人材不足は永遠に続きます。
新入職員への教育のあり方は、サービスの品質につながるだけでなく、定着率にも直結します。人材不足が最大の課題となっている介護事業にとって、最も重要となるのが、人材が張り付き定着する教育システムです。そうした介護人材マネジメントの一環として新人教育・指導のあり方を考えてほしいと思う。
改正新型インフルエンザ対策特別措置法に基づく緊急事態宣言
安倍首相は、人と人との接触を極力減らすため、国民にこれまで以上の協力をいただき、医療体制を整えるためと説明した。
そこで介護事業者はどうなるのかという問題がある。特に外から人が集まってきて、集団活動を行うことも多い通所介護は営業してよいのかという疑問が出てくると思う。
この宣言に基く具体的要請や指示は、都道府県知事が決定して行うことになるため、宣言対象地域によっては取り扱いが異なってくる可能性もあるため、その内容の確認がまず重要になる。
改正法で、介護事業に関連する規定として次の2点が一番大きく関連してくると思われる。
(外出自粛の要請)
都道府県知事は、「生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないこと」を期間と区域を決めて住民に要請できる。
(学校、社会福祉施設、イベント会場の使用制限)
都道府県知事は学校、社会福祉施設、興行場(映画、演劇、音楽、スポーツ、演芸などの施設)の管理者に対し、施設の使用制限もしくは停止を要請できる。また、イベントの主催者にイベント開催の制限もしくは停止を要請できる。施設管理者等が正当な理由がないの要請に応じないときは、施設管理者等に対し指示することができる。
このように要請だけではなく指示も行われるわけであり、より強制力が強い印象が与えられている。
その中で、介護施設には感染防止対策をとるよう求め、利用者や家族などの生活維持に必要ないサービスについては使用制限などを求める場合があるとされている。
介護施設等の居住系施設は休止ができないので、感染予防対策として面会制限と外出制限の強化が求められる。ショートステイや通所サービスについては、休止を要請指示される場合がある。
通所介護や通所リハビリは、仮に休止が求められなくとも、宣言対象地域の事業者は万全を期して、宣言期間中の営業自粛をすることもあると思う。今の状況から言えばそれは仕方のないこと。仮に休止要請が行われない場合も、営業中にそこでクラスター感染が疑われる事態になっただけで、日本中から非難を受け、二度と立ち直れなくなる危険性さえあるのだから、営業を自粛するという判断に傾くのはやむを得ないと思う。通常営業を行う壁はあまりに高いといえる。
ただし宣言が出された場合であっても、自主的に営業自粛する場合であっても、利用者や関係者に対して一方的な休止宣言で終わらないでほしい。
多職種協働の精神は、こういう時こそ必要だ。今まで発出されている通知等で、今回のウイルス対策の特例として、通所介護事業所職員が利用者宅で通所介護と同じサービスを行う場合は、通所介護費を算定出来たり、ヘルパー資格のない通所介護職員が、併設ヘルパー事業所のサービスとして訪問介護サービスを行って、訪問介護費を算定できるというルールが出来ているので、その必要性はないか、そういう対策が講じられないか等々を、担当のケアマネジャーを中心にして十分検討してほしい。
政府は、外出自粛期間中も「健康維持のための散歩と運動は認める」などと記す方向で調整しているとのことであり、特に高齢要介護者の宣言期間中の体力・機能低下には最新の注意を払ってほしい。
ちなみに外出自粛要請に従わない住民への罰則はなく、都市封鎖のような措置はできないことも知っておく必要がある。ただし要請・指示に際して事業者名を公表するため、それに従わない事業者等には社会の視線という実質的な強制の色彩を帯びることを覚悟しなければならない。
分相応の経済観
元総理大臣の池田勇人氏は蔵相時代に「所得の少ない方は麦、所得の多い方は米を食うというような経済原則に沿ったほうへ持っていきたい」と答弁し、これが「貧乏人は麦を食え」と伝えられました。
要するに、分相応な暮らしをしろと言うことで、「貧乏人は麦を食え」はまさに正論です。
介護では「貧乏人は在宅介護をしろ」と言う話しになります。
そのことが結果的に高齢者が望んでいる暮らしが実現となり、お金で買えない幸せを得ることができます。
有料老人ホームという施設がありますが、この施設に入居できる方は相当裕福な方たちですが、入居者に共通してるのは殆どの方が自宅での暮らしを望んでおられ、悲しくも寂しい高齢者の方たちです。
貧乏人は麦を食えじゃないけれど、分相応の暮らしをするっていうのは生活の基本です。
一番の無駄なお金は人が死んで通夜、葬式、法要という宗教的行事に付随してお寺に払うお金です。
今は普通の葬式をする方は少なく、家族葬の時代になってますが、家族葬をされた方々が必ず言われるのが、葬式は安くなったけど、お寺に払うお金が高すぎるということです。
そこで今、急激に増えているのが直葬です。
直葬とは通夜・告別式を行わず、納棺後すぐに火葬する葬儀のことです。
これなら安く葬儀にかかる費用を大幅に抑えられるだけではなく、遺族の体力的・精神的な負担を軽減することができます。
直葬をすれば、数百万円のお金がいらなくなります。
その数百万円のお金を、故人が生きてるうちに故人の為に、使ってあげたほうが喜ばれるのではないでしょうか。
人間は見栄で生きてる部分は必ずあり、盛大な葬式をするのもその見栄の部分です。
お寺に沢山のお金を払って、院号とかの位をもらうのも、見栄以外何でもありません。
「貧乏人は直葬をせよ」と言いたいところですが、今の時代はお金があり、見栄で生きてる芸能人でも殆どが家族葬とか直葬をする時代です。
在宅介護も、特に介護離職された場合とか金銭的に大変です。
分相応な暮らしをすることと、亡くなったあとの葬式のことも要介護者と話しておかれればと思います。
排泄支援を素手でしている、驚きの事実!
排泄介助はビニール手袋をせず、素手でしています。と言う話しを聞きました。
これは、最低のことで絶対にしてはいけないことですが、素手で排泄介助をしました、手はうんこまみれになりますし、爪の間にもうんこが入ります。とのこと。
一人の利用者が終われば、手を洗うのではなく、ウェットティシューで手を拭いて、手に消毒のスプレーをして次の利用者の排泄介助をしているそうです。
こんなことをしている福祉施設は完全に狂っています。
素手でする理由は「ビニール手袋をすれば冷たい感じがする」だそうです。
「冷たい感じがする」のであって、本当に冷たい訳ではないのです。
排泄介助を素手ですることを求めるのは、異常としか思えない危険なことです。
排泄物、吐しゃ物は汚いもので、感染防止の観点からも、絶対にしてはいけません。
自分自身を守るためにも、手袋をしてほしいと思います。
看取り介護の教育に一考を!
死生観「死あるいは生死に対する考え方。またそれに基づいた人生観。」
誰かの死の場面に向かい合う看護や介護の仕事において、それぞれの死生観がその仕事に影響してくることはあるのかもしれない。だから誰かの人生の最終ステージに関わる、「看取り介護」の教育として、「死生観教育」が必要と考える人がいることは理解はできるが・・・。
あなたは胸の中に抱いている人生観とはどういうものでしょうか?
それは誰かから教えられて、あなたが得た考え方だろうか?同じ死生観を持たねば看取り介護の実践の場で何か支障が生じますか?
わたしは、「死生観」と言えるような人生観があるとすれば、それは誰かから、「こう考えなさい」と教えられたものでもなければ、ましてや押し付けられたものではないと思う。
それは自分が今まで生きてきた中で、ごく自然に獲得した観念であり、様々なエピソードを刻んだ経験が大きく影響しているのではないかと思える。様々な死生観を持つ人たちが、様々な形で看取り介護に関わってよいのである。それは決して統一しなければならない観念ではない。
なので看取り介護の教育に、「死生観」を教育することなど必要ないと思っているし、教育したって意味がないだろうと思っている。そもそも終末期支援に関わる関係者が、同じ死生観を持つ必要はない。
旅立つ人がこの世の中で生きた証を感じることができるように、様々な思い出を紡ぐ人生の最終ステージを支援するという意味だ。命の期限がある程度見えている中で、この世でご縁のあった方々と、限りある時間を意識する中で、最期のエピソードを刻むのが看取り介護・ターミナルケアである。
そこには様々な人が関係してくるのだから、様々な考え方があってよい。人それぞれの思いが交錯しながら、生きるとは何か、死とは何か、人は何故この世に生かされているのかを思い、感じられるのだと思う。それが人間社会だ。
人にはそれぞれの様々な死生観があり、看取り介護の現場に関わる職員は、それらの様々な死生観や価値観に受容的に寄り添うだけで良い。こうした死生観を持ちなさいと言う教育などいらない。
介護に携わるのは人間そのもの。その人たちの暮らしの中に深く介入するのが対人援助だ。そこに居る人々とは、個性の異なる様々な人生を送ってきた人たちであり、みんなが同じ価値観を持っているなんて云うことはあり得ない。そしてそれぞれの固有の価値観は、善悪とか良否判断ができる問題ではなく、人それぞれの個性であり、人生観であると受け入れるしかない。
一番大事なことは、看取り介護とは、対象者を最後の瞬間まで安心と安楽の状態で支援する行為であることを忘れないことだ。そのための基礎知識と援助技術を持つことであり、「生きる」を支える姿勢を失わないことであると思う。
新型コロナウイルス感染対策の迷走
新型コロナウイルスの感染予防対策は、様々な迷走を生んでいる。
例えば某地域では次のようなケースがあった。
住宅型有料老人ホームで生活している要支援者の方に、面会に訪れた家族が玄関先で面会を止められたというのだ。この利用者には外部からヘルパー支援が入っており、担当のケアマネジャーも施設内で面接しているのに、いきなり家族だけが面会を断られたわけである。しかも面会制限は事前連絡なしだ。
その利用者の方は90歳を超えた女性で、重度の心不全を持病に持っており、無理できないためにヘルパー支援で足りない部分や、ヘルパーの支援対象となっていない部分を、家族が替わって行うことで日常生活が成り立っているそうである。それなのにその大切な家族支援を拒否されているのだ。
ヘルパーとケアマネが入れるのに、実質日常支援を行う家族が施設に入れない理由は、前者は仕事できているので、何かあれば事業所が責任を取ってくれるが、家族の場合は、責任を取る主体がないからだという・・・。こう書いても意味が全く分からない人が多いだろう。そんなふうに筋が通らない理由で面会拒否されたそうである。
憤慨した家族が施設長に講義を申し出たところ、翌日から家族支援を受けている家族は、細心の注意を払い面会できる様になったということである。
面会制限自体は、この時期だから仕方がないだろうが、制限には一定の配慮と工夫が伴わなければならない。まして事前連絡なしで、玄関口で一方的に入館を禁ずるのは配慮不足と言われても仕方がない。外部ヘルパーの訪問を許して、ヘルパーでは足りない支援を行う家族の訪室を許さないことの根拠も乏しい。
こうした状況が起きる問題の本質とは、感染予防という名のもとに、施設側の責任を誰かに転嫁するような根拠のない対策が取られているということだろう。
ここで一つ考えてほしい。面会を禁止にした場合、それではということで、家族が居住系施設に入所利用している方を、気分転換のために外出に連れ出したいと申し出た場合、それを拒否できるかという問題である。
もちろん、不要不急の外出はなるべく控えるようにお願いしている最中であるから、人混みが想定される場所に利用者を連れ出さないようにお願いすることはできるだろう。しかしそれはあくまで要請レベルにとどまるし、外出そのものを禁ずることは出来ない。
そもそも職員は施設以外の場所から通ってきており、その際には満員電車に揺られる中、周囲の人たちと濃厚接触しているわけであるし、自由に外出している。利用者だけを外出禁止にするわけにはいかないと思う。
家族から利用者を気分転換のために、外食に連れ出したいと求められたら、それを認めるしかない。その際にできれば感染予防の観点から、お店で外食するのではなく、家で食事してくれませんかと頼むのがせいぜいだろう。
施設側の依頼や要請に対して、家族がどう応えるのかは日ごろからのコミュニケーションと関係性がベースになって決まってくる問題。感染予防に関して施設側、家族側双方がベターな選択をするためには、施設と家族の信頼関係が大切だという一言に尽きる。
面会に来た家族を玄関口でいきなり面会禁止を宣言するような施設が、家族との信頼関係を築くことができるかを考えてほしい。大変な時期をそれぞれの立場の人が、様々な対策を取って乗り切らないとならないのであるから、お互いがそれぞれの立場を慮るということが何よりも大切だということを忘れてはならない。
そもそも面会を制限している今だからこそ、居住系施設の責任で利用者の外出機会は確保してほしい。
面会制限と外出制限はセットではない。面会を制限する分、安全な外出支援に力を入れるべきである。
東京都の小池知事は3/27の定例記者会見で、「来年も桜はきっと咲きます。お花見はまた来年も咲きますので、楽しみにとっておいて、ここはみんなで難局を乗り越えることでご協力をいただきたい。」と語ったが、介護施設の高齢者の事情は異なる。
特養だと1年間で最低1割、多い年で3割程度の人が死亡しているのだ。今年の桜がこの世で最期に見ることができる桜なのかもしれない。そういう人たちから、今年の桜を見る機会を奪ってはならない。弁当を持参してお花見を行うのは適切ではないが、桜を見る機会を創ること自体は行ってよいことと思う。
面会制限をしているならなおさら、気分転換が必要だ。桜の周りで飲み食いするお花見は自粛するのは当然だが、例えばドライブがてらに車内から桜を眺めても感染リスクが高まることはないだろう。面会制限をしている施設であっても、利用者を少人数のグループに分けて、桜がみられる時期と場所を選んで、ドライブがてらに車内からでも桜を愛でる機会を創ろうと努力するのが、今この時期だからこそ求められることではないのだろうか。
知恵と愛のない感染予防対策ほど、人の権利を侵害するものはないことを自覚して、利用者の方々の健康と暮らしを同時に護る介護サービスを実現することを願う。
新型コロナウイルスの知恵と配慮のない面会制限に物申す!
介護施設やサ高住・GH等の居住系施設住む高齢者は、新型コロナウイルスに感染すると重篤化するリスクが高いだけではなく、場合によってそれは死に直結しかねない。そうしないために面会制限をするのは、この時期であれば当然である。
しかし制限だけして終わりではあまりに無責任である。介護施設をクローズして、家族と会わせない権利は誰にもない。例外的に医学的見地から一時的な制限が認められているに過ぎない。
感染予防は施設を社会から隔離した密室と化すために行うものではなく、感染を予防して安全な環境を保つために行うものであるのだということを忘れないでほしい。居住系施設を外部の家族とのコミュニケーションさえ取れない場所にしてしまえば、それは冷たいブラックボックスでしかなくなる。
特に特養は介護施設であると同時に、利用者のとっては暮らしの場であることを標榜しているのだから、制限と配慮はセットで考えなければならない。
今の時代はICT技術で、対面しなくてもコミュニケーションをとる方法はいくらでもあるのだから、そうした工夫をしないで面会制限だけを行うのは、いかにも知恵と配慮のない施設運営だというべきだろう。
例えばネット環境さえあれば、Google等でビデオ会議・チャットサービスの無料アプリが提供されているので、簡単に画面を通じて相手と対面しながらコミュニケーションが取れる。そうした技術はすでに特殊技術ではなく、スマホやタブレットを日ごろから使い慣れている人にとっては一般的なアプリ利用に過ぎない。誰でも使える方法である。そうしたアプリを活用しないで、面会制限だけをダラダラと続けている施設は、強制収容所と同じである。
施設の利用者の姿かたちが見えない状態で、情報だけ送っても家族にとっては不安が大きい。それは幻の音信にしか過ぎず、真実とは異なる。面会を制限している密室で自分の親がどのように暮らしているかを見て、本当の姿を確認したいと思う家族は多いだろうし、その気持ちはあって当然である。そうした思いにも寄り添うのが対人援助として求められるサービスの品質である。
各サービスステーションに、PCもしくはタブレットやスマートホンを置いておくだけで、それを通じて自宅にいる家族と簡単にコミュニケーションをとれるのだから、面会制限中は施設側から積極的に家族の持っている末端と施設をつないで、画面を通じて姿が見える形のコミュニケーションをとれるようにすべきだ。
しかしこうした方法を、わざわざ施設に訪ねてとらせるのもどうかしている。
チャットサービスは、距離が離れていても可能なのに、施設の受付に末端を置いて、そこに訪ねてきた家族が、館内に入らない状態で、施設内の利用者とコミュニケーションを取らせているような馬鹿げた使い方をしている施設がある。デジタル機器をアナログ化しているような使い方だ。
もちろん、たまたま面会制限を知らずに訪ねてきた家族にそういう方法を取ることはあっていいし、ITやICT利用が苦手である人にサービスとして、施設の玄関口でそういう対応をしていただくことはありだろう。しかしそれで終わってどうするのかと言いたい。
それはごく限られた人に対するサービスにすべきで、それを広げて利用者家族が自宅から施設利用者とコミュニケーションを取れるように支援するのが本当の意味での行き届いたサービスではないのかと思う。
諦めてはいけない!ケアマネを変える方法
どんな世界にもガンと呼ばれる『人・もの』があります。
ケアマネ(介護支援専門員)の世界にもガンと呼ばれるケアマネが存在します。
〇御用聞きケアマネ
言われたことだけを淡々と行う、サービスを調整するだけがケアマネの仕事だと勘違いしている。
専門職としての提案や予後予測など皆無。
〇囲い込みケアマネ
自分の系列のサービス事業所への利益誘導のため、せっせと利用者に営業活動を行う。
サービスの選択と言う考え方は皆無。
〇俺様ケアマネ
ケアマネはサービス事業所より立場が上だと勘違いして、横柄な態度を取ったり、無理無茶な要求をする。
多職種連携、多職種共同というチームワークは皆無。
また、特定の施設から紹介料という形でお金を受け取っていて、不人気で定員が埋まらない施設を熱心に勧めるケアマネもいます。
それと、たまに新聞に出てますが、利用者の貯金通帳、キャッシュカードからお金をおろして、自分のものにしてしまうケアマネも存在します。
ケアマネの既婚女性は、当然義父母とは反目しており、「絶対に在宅介護なんかするものか」との反在宅介護、アンチ在宅介護の思想を持ってますので、在宅介護されてる方たちに寄り添えるのか疑問です。
ケアマネは変更することができます。
ケアマネを変更する場合、一番スムーズなのは、ケアマネを紹介してくれたところへ再度相談することです。
例えば、地域包括支援センターから紹介された場合はもう一度地域包括支援センターへ、病院の退院時に紹介されていたら、退院支援をしてくれた病院の職員に相談してみましょう。
市区町村役場などでケアマネのリストをもらい、自分でケアマネを選んだ方の場合は、地域包括支援センターに相談するか、ケアマネのリストから新たなケアマネを探して連絡してみましょう。
もしも、現在のケアマネが在籍する事業所は変えずに、担当だけを変更したい場合には、事業所の管理者へ相談してみましょう。
市区町村役場へのケアマネ変更の手続きは、新しいケアマネが行ってくれますので、安心してください。
ケアマネは、困ったときに相談できる関係性でなければ意味がありません。
相談するにあたって気を使ったり、「あのケアマネに相談してもどうせ解決してくれない」などとあきらめるような関係性であれば、他のケアマネを探すことをお勧めします。
愛の反対は、憎しみではなく無関心
ノーベル平和賞を受賞した、マザー・テレサは慈しみに溢れていました。
マザー・テレサは宗教家でもありましたが、ノーベル平和賞の賞金19万2,000ドルはすべてカルカッタの貧しい人々のために使われ、授賞式の場で「私のための晩餐会は不要ですその費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」と要望されました。
愛の反対は憎しみではなく無関心、これは介護施設に入居されてる利用者の家族を表現するに、ピッタリと当てはまる言葉です。
介護施設に入れたら最後、面会にも来ない家族も沢山いて、「看取りも施設でお願いします」と言い、施設に寄り付きもしない家族も沢山います。
まさに、「無関心」以外何でもありません。
まさに、介護施設というところは、人間であることの哀しみの底を見てしまうところです。
いつの日か利用者の自己決定権が尊重される社会になってほしいと思う。
世界中がコロナウイルス対策で大変なときの介護施設
世界中でパンデミックになっているコロナウイルスですが、介護施設もコロナ対策では他人事と思わないようにしましょう。
以前、社会福祉法人の特養で、ノロウイルスが集団感染しました。その対策、補償等で一千万円以上使ったと言われています。なので、ノロでありコロナであり、予防に数百万円使っても安いものです。
介護現場で事故が発生した場合、事業者や施設はその詳細を市町村に届け出ることが義務づけられています。
その報告内容の約8割は、ベッドや車椅子などからの転落事故、そして歩行中や立ち上がりに際しての転倒事故となっています。
介護施設では、事故が起こった場合、100%職員のミスになります。
個室で、自立されてる利用者が夜間に転倒しても、トイレの中で転倒しても、職員のミスになります。「見守りしてたら防げたミス」のことです。
食べ物を喉に詰まらせて利用者が亡くなられるケースもよくありますし、実際に裁判になっている事例もあります。
こういう場合でも、介護者は利用者が安全に食べるのを見守る責任があるので、裁判では介護者が敗訴するケースがほとんどです。
医療や介護の現場で、ヒューマンエラーは絶対になくなりません。
裁判がある度に、介護施設での事故は介護者に100%責任はありますが、在宅介護ができる環境があるのに介護施設へ丸投げした家族はどうなんだと思います。
親を在宅介護するという義務を果たさない人間は、介護施設に感謝がないから裁判にまでなると思います。
在宅介護したいけど、いろいろな事情で施設介護を選択せざる得なかった家族の方は、介護施設に大変感謝をされてます。
その違いは、大いにあります。
介護施設としては、本当に在宅介護ができなくて困っている要介護者に入所してもらうべきと思う。