介護の在り方
制度がどう変わろうと、報酬体系がどう変化しようと、我々は対人援助サービスに携わっているのだから、結果的に誰かの人生の一部に深く関りを持たねばならないということだ。
そのことの意味を知り、そうした職業に携わっていることに使命と誇りを持たねば、人の不幸を見過ごしてしまう恐れがある。見えない涙を見逃してしまうことがある。
恐ろしいのは、介護の質とは、知識とか援助技術以前に、考え方そのもので左右されてしまうことである。
毎日入浴するのが当たり前の生活習慣であるはずの人が、大昔につくられた週2回入浴支援しておればよいという基準に洗脳されて、介護施設で週2回しか入浴させないことを何とも思わなくなる恐ろしさ・・・。月曜の午前中に入浴した人が、その日の午後に機能訓練に汗しているのに、その汗を木曜日の入浴の日まで洗い流すことのできない質の低い暮らしを当たり前だと思い込む鈍感さ・・・。そうした世間の非常識ともいえる感覚にどっぷりつかった人は、自らを恥ずかしく思わないのだろうか・・・。
そのことを考えると、つくづく介護には、人を見つめ、人の思いを想像し、人をいつくしみながら創造する感覚が必要だと思う。
そこに存在する誰かの否定的な感情を見逃さないことが大事だと思う。
アトラクションを観て笑っている人の傍らで、つまらなそうにしている人や、苦しそうな表情の人がいるのはなぜか?大きなイベントの後で、職員がそれをやり切ったという充実感を味わっているまさにその時に、「祭りの後の寂しさ」に表情を曇らせている人はいないかを考えなければならない。
トイレ介助のたびに、長い時間廊下に並ばされる日常を強いられている人たちの表情はどうだろう。その時に、その人たちはどんなことを考えているのだろう。プライバシーのかけらもない、排せつ介助や着替え介助を受けている人たちは、恥ずかしさを感じていないのだろうか。それは慣らされて飼われていろといってもよい状態ではないのだろうか。
食事をする愉しみとは程遠い食事摂取をさせられている人は、そのことをどう思っているのだろう。
年下の介護職員にタメ口で話しかけられ、それに対して丁寧語で答えている利用者の思いはどこにあるのだろう。
考え続けなければならないこと、変えなければならないことは、まだ山ほどあると思う。