Allo介護の不思議な世界

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基本的な看取りに思うこと!

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看取り介護対象者は、特別な医療対応が必要な状態像ではない。



勿論、終末期にも医療対応や看護処置が必要なくなることはないが、それは日常の医療・看護サービスの域を超えるものではない。



むしろ不必要な延命措置や、苦痛につながる医療は徹底的に排除され、その延長線上に点滴や経管栄養を行わないという判断がされるケースも多くなる。だからそこでは日常生活の場で療養生活を送る範囲で対応可能な医療・看護サービスに限定されて提供されると考えてよいもので、自宅やサ高住、グループホームや特定施設、そして特養で日常的に行われる介護の域を出て、特別な対応が必要とされるわけではない。



だからと言って経管栄養が絶対されないわけではないし、経管栄養をすべて悪ものと思い込むことも間違いであるということは、このブログで再三書いてきた。



鼻腔栄養の苦しみをなくすために胃婁を増設することだってあるだろうし、安楽な終末期に苦痛なく緩やかに移行する段階として、胃婁対応の時期がある場合も想定される。何より本人が望んだ場合は、延命第一で胃婁対応するケースが否定されて良いわけがない。



そのような場合は適切な胃婁管理が必要になるし、それ相応の医療サービスが基本サービスとして提供されるように、医療・介護連携のチームを組んで対応すべきである。そのことは施設・在宅に関わらず視野に入れて行われなければならない対応であり、今の時代、看取りの場がどこであろうと、医療と介護がそれぞれ別個にサービス提供を行わねばならないとか、別個でないとサービス提供ができないとか考えるほうがどうかしている。



医療も介護もハイブリッド化して、適切な連携を組むシステムが地域包括ケアシステムなのであり、施設サービスも、居宅サービスも区別なく、そのシステムに含まれて行かねばならない。



しかしその際も、医療や看護が担うのは最先端の医療科学分野ではなく、日常生活の場で対応可能な、ごく一般的な医療・看護サービスと言える。医師はそこで、どこまで胃婁対応などの医療を提供するべきかという判断を常に視野に入れてしかるべきである。



終末期を迎える高齢者が、息を止めるまで一度増設した胃婁を使い切るという必要はないわけである。ある時期は、その対応により安楽が保たれた人であっても、そろそろそれさえも必要がない時期になっていくという判断をしないことには、いたずらに延命して苦しみを引き延ばす結果になりかねない。



一時の安楽支援が、苦しむ時期を後にずれ込ませるだけの結果になるのはあまりにも対象者にとって過酷な運命と言える。だから医師による、「しなくてよい医療行為の判断」は、終末期を迎える人にとって何よりも重要となる。何でもできる医師だからこそ、「しなくてよい」という医師の判断には信頼を寄せられるし、安心できるのだからこそ、その役割を適切に果たしてほしいものだ。



そのうえで、終末期とはどのような時期で、そこで必要な支援とは何かを今一度安心・安楽な介護という原点に戻って考えてもらいたい。人が「生きる」とは、どういう意味があるのかを同時に考えてもらいたい。あなたが終末期をどのように過ごしたいのか、どう生きたいのかを考えてほしい。



終末期を過ごしている人が痰にむせこんでいる状態を見て、喀痰吸引こそが安楽支援にとって何より必要だという考えには全く賛同できない。それは完全に間違った考え方である。なぜなら喀痰吸引されている人が一番苦しむのは、痰にむせている時ではなく、喀痰吸引されている時だからである。そこで必要なのは痰が出ないように、不必要な点滴を終了することではないのだろうか。



肺がんで禁煙を余儀なくされた人の終末期にまで禁煙の継続が必要だろうか。勿論無理してまで煙草を吸わせる必要はないが、「せめて今際の際(いまわのきわ)に煙草を一本吸って旅立ちたい。」という人の願いをかなえることは、そんなに難しいことなのだろうか。最期は1日1本でも良いから、我慢していた煙草を吸えるように援助することが必要ではないのだろうか。そのために煙草を吸うことを阻害しているものは何かというアセスメントが求められ、その結果、不必要な医療対応、過剰な医療行為があぶり出されるのではないだろうか。



糖尿病に長く苦しんでいた方が、合併症を防ぐために我慢していた「甘いもの」を、心おきなく食べることができるのは、命の期限が切られた終末期であるからこそである。心おきなく食べることができると言っても、その量は自ずと限られてくる。ほんの一口や二口、あんこを食べることができたと喜んでくれる人の傍らで、我々は一体何をすればよいというのだろうか。その笑顔だけを寿(ことほ)げばよいだけの話ではないのだろうか。



「もう一度温泉にゆっくり浸かって死にたい」と言っている人に、一生懸命、「湯船につかるのは体力が奪われるからよした方が良いです」と説得することに何の意味があるのか・・・。



看取り介護とは、「命の期限」が予測されている人に対する支援行為である。だからこそ、その時期であるからこそ、「できること」・「やれること」は、命の期限が不明な人より数多く存在することになるわけだ。そこでできることはとても多くなるのである。それを支援者が狭めてどうするのだろうか・・・。



だからこそ、看取り介護・ターミナルケアは日常の暮らしの場で行うことができるものだし、暮らしの場である特養で行えないと考えるほうがどうかしているのである。そうした特養は、「暮らしの場」とも、「終生施設」とも言えないのである。



そうした特養は、その看板を下ろすべきである。