介護職として
人々の日々の営みに寄り添うものであるがゆえに、惰性に流されて気づかなくなってしまうものがたくさん存在すると思う。時の移ろいの中に自然に身を委ねて、特別なことを考えなくとも暮らしを営むことができるということは悪いことではない。それが最も求められる場合もある。
しかし忘れてはならないのは、僕たちは様々な支援を求めている人々の日常生活に深く介入して、本来他者が踏み込んではならないかもしれないプライべートな領域で活動を行う場合が多い。その時、土足で人の心を踏みにじることがあってはならず、常にそのことを自戒して活動に取り組む必要がある。
なぜなら人の感じ方、感性は様々で、僕たちの側に悪意や悪気がなくとも、簡単に傷ついてしまうのが人の心だからである。しかも厄介なことに、体の傷は見えたとしても、心の傷は見えないのである。僕たちには五感を働かせて、人の喜怒哀楽に敏感になって、心の傷さえ見つめようとする心根と、自戒が常に求められているのだ。
何かと行事が多い年末年始に、利用者が楽しむための行事を企画するのは良いが、高齢者の方々が大人として対応されていない場面を見ると哀しくなる。認知症になったからといって、なぜ子供のような扱いを受けるのだろうか?
グループホームや特養や老健で、認知症の方がクリスマスに、紙で作った帽子をかぶらされてクリスマスソングを歌わされている姿は、僕から見ると少しもほのぼのとした姿に見えない。そこには認知症という冠をつけられた高齢者が、子ども扱いされている哀しい姿としか映らない。
介護施設の玄関先に展示されている様々な作品。折り紙や水彩画、習字・・・。頑張って作ったのだろうけど、決して見事とは言えない作品が数多く展示されている。それは本来プライベート空間に置くだけでよいものではないのだろうか。それらの作品から伝わる妙な物哀しさ。ああここはやはり特別な場所で、日常の存在しない場所なんだと思ったりする。
世間一般的に、大人が楽しむイベントとして、介護施設や介護サービス事業所の行事が行われる方法はないのか、大人が楽しむ方法はないのかをずっと考えてきた。以前から慣例的に行われていた行事や方法を壊していきたいと思う。
相手の立場に立って物事を考え、その結果を確認するように努めてきたつもりだ。それが特養を「暮らしの場」にするための唯一の方法だと思い続けていきたい。