介護という職業
介護という職業で「生活の糧」を得ている人は、介護のプロとしてその職業にかかわらねばならない。職業としてかかわる以上、そこでサービスを利用する方々は、単なるユーザーではなく顧客である。その職業を通じて金銭対価を得るプロであるなら、顧客に対しそれ相応の礼儀と信条が必要だ。
介護のプロとして顧客に接することができないならば、そこで生活の糧を得ることは許されない。そういう人は介護の仕事を辞めるべきである。
利用者に対して「ため口」でしか会話ができない職員は、介護のプロとは言えない。しかも日常的にため口でしか利用者に接することのできない人の姿は醜い。介護の職業を誇りに思い、天職と信じてそれに携わっている人々にとって、ため口でしか利用者に接することができない人々の姿は、ストレスでしかない。どうしてその醜さ、恥ずかしさに気が付かないのだろうかといつも苦々しい思いで、そういう人々の姿を見つめていることだろう。
しかしなかなか言葉遣いを改めようとしない人が数多くいることは事実で、そういう人々の心無い言葉によって、深く傷つきながら、その思いを誰にも訴えられない利用者が、介護サービスを使う利用者の中にたくさんいることも事実だ。そういう人々は自らの心を殺して、死ぬまで我慢し続けなければならないのだろうか。
言葉遣いに鈍感な人々は、そんなふうに社会の片隅で泣きながら生きる人が存在することをどう思っているのか?介護を職業としている以上、ため口で親しみやすさを表現するのではなく、丁寧な言葉を使いこなして、親しみやすさを伝える技を持つべきである。
そういう意味で、どんなに良い方法論を伝えたとしても、彼らの醜い言葉遣いを真似する輩がなくならないという結果責任において、その罪は深い。
ところで、職場全体で言葉遣いを正しくしようと取り組んでいる場所でも、なかなか全員がその方向を向かず、何度注意してもその場ではうなづくが、日常会話からため口をなくせない人がいたりする。
職場のルールはわかっているが、なぜそうしなければならないのかという根本が理解できないという理由と、言葉を変えて何が変わるのかが理解できないことと、言葉を改めるモチベーションが高まらないのが理由である。
言葉を変えるというきっかけが必要なのである。言葉を改めようとするきっかけがないと、真剣に変わろうとしないのである。
だからそういう人に対しては、熱い心が湧き上がるような様々なエピソードを示しながら、言葉を変えることで、ため口をなくすことで、何がどう変わるのかを伝えないとならない。そういうことを伝える旅を続けているのだが、その話を聴いてくれた方々が、職場の仲間に伝達しても伝わらない職員が幾人か出てきて、伝わったと思えた職員のモチベーションもいつのまにか下がってしまうということがある。伝達する人の熱い思いがなかなか伝わらないというジレンマもあるだろう。
大きな改革のためには、大きなキッカケが必要で、その中で全職員の熱量を一気に高めて、その勢いで一気に改革を推し進めるということが求められたりするのだ。
そうであるがゆえに内部研修で、職員全員を一堂に会して、その中で一緒に熱を上げながら伝え、その熱が冷めないうちに改革を実行し始めるという機会は必要なのである。