社会資源というケアマネ 《家族》は社会資源ですか?と問いたい!
一律機械的な制限を行っているところがあるそうだ。ローカルルールは、保険者の権限が強化される2018年以降増えることだろう。その時に、利用者の暮らしをコーディネートするケアマネジャーが、こうした制限はもっともであると無批判に受け入れることで何が起こるだろうか。
就労している息子に、同居しているという理由だけで一律機械的に家事を押し付けることは、どんな結果をもたらすのかという想像力が必要だ。就労で疲れた体を鞭打ちながら作る夕食や朝食のみならず、自分が不在の際の家族の昼食準備さえ、一律機械的に押し付けるという暮らしの中で、本当に人間らしい暮らしの営みを継続できるかという視点が必要だ。
「同居家族に障害や疾病等がない場合であっても、介護疲れで共倒れの危険性がある場合」という状況を、個別状況に当てはめて、狭く考えるのではなく、より広く考えるほうが、人の暮らしの支援では必要なことだろう。それはサービスありきの計画ではなくて、必要性をアセスメントすることによって導き出すという意味に他ならない。
原則制限が正しいと言い切るケアマネが担当者であってはかなわない。
そもそも家族は、インフォーマルな支援者とか社会資源とかいう前に、血の通った人間そのものである。血の通った人間は、いつも頑張れないし、くじけることがある弱い存在だ。
社会全体で支えあうために生まれたはずの介護保険制度とは、皆がぎりぎりまで頑張らなくてもよくなる仕組みを作るという意味があったのではないのか。「それは家族が行うべきことでしょ。」・「同居家族がいる方の調理は、家族支援が基本だ」と簡単に断じる介護支援専門員は、介護の社会化というコンセプトや、強制加入保険で生ずる国民の権利との整合性をきちんと語れるのであろうか。
そうしたケアマネジャーは、家族が頑張って限界点に達する瀬戸際で、心が壊れていく様をみたことがあるのだろうか。
それともそうしたケアマネは、「国民の健康で文化的な最低限度の生活」を奪うことを目的として居宅サービス計画を立てているとでもいうのだろうか。
一律機械的制限が危険であるという視点がないケアマネに、本当の意味の暮らしの支援なんてできるわけがない。ろくでもないローカル行政ルールに縛られて、制限をすることが適正プランであると思い込んでいるケアマネに、この国の行く末を任せることなんてできないのである。