老いを知る
「老い」をも合わせて人生というものを全体として受容する人生観を考えるとき、避けて通れない道がある。
それは「死の影を見つめる」ということである。
昔は幼い命も数多く失われたが、現在では死ぬ人の7割以上が高齢者なのである。
どんなに医学が発達しても死は避けられない。そして「老い」の一面は死へ向って歩いて行く過程でもあり、確実に死に近づきつつあることなのである。
果たしてそれは不幸なことではない。
人が他の動物と区別される本質的な差は、時間を認識するということであり、その有限性を「死」として理解できるということである。
ひとたび青年期に思いを馳せながらも、その後久しく忘れかけていた「死」の問題を考えるときが人生の何十年か後に与えられている、というのが「老い」の時期の一つの意味ではないのか。
若い時にしかできないこともあるが、年をとらないとわからないこともあるのだ。一つ一つ物事を知ることが増えてくる「老い」という時期も人の生命にとって、人生にとってなくてはならない時なのだ。
「老い」を拒否する社会は死を拒否する社会である。しかし老いも死も必ずやってくる。
我々は時間の中で生きている。
すがすがしい朝、燦燦とふりそそぐ太陽は素晴らしい。しかし同時に、茜色に映える夕陽もやがて沈むことを知るのは大切なことである。老いとは、人生とは、それぞれに意味深い時間の流れなのである。
20歳の頃、40半ばを向える自分を想像できなかったし、その頃より良いものではないだろうと漠然と感じていた。
しかし今、その時期を迎えてみると、40代は40代で、また面白い人生があるのだ。時間の流れの中で「老い」に時期をも楽しんで迎えられる人生でありたい。