多死社会の一人死について
死の瞬間まで人は生き続けなければならない。限りある命の最期の瞬間を、どのように生き、どのように旅立っていくのか・・・。このことを自分の問題として考えている人はどれだけいるのだろうか。
旅立つ最期の瞬間まで、その生を支えるのが看取り介護・ターミナルケアである。
そうした看取り介護・ターミナルケアの重要性は、医療・保健・福祉・介護関係者が認識するだけではなく、一般市民の方々が自らの問題として認識しなければならない。
自分の親しい身内が亡くなる時にどうしたいのかというだけではなく、自分自身がどこでどのように死の瞬間を迎えたいのかということを真剣に考えることは、人としてこの世に生まれた最終ステージをどう生きるかを考えることであり、それは自分の人生とはどのような意味があったのか、自分はなんのためにこの世に生かされていたのかを真剣に考えることとつながる問題だ。
死者数が増加し続ける我が国では、2030年には47万人の人が「看取り難民」となる危険性が叫ばれている。勿論、人はどこでも死ぬことはできる。しかしその時、どういう状態で死の瞬間を迎えたいのかを自らの問題としてそれぞれの国民が真剣に考えなければならない。
つい最近までは、そんなことを考えずとも、死の場面が近づいた人を、家族が医療機関に入院させ、そこで息を引き取ることができたのである。そうして国民の8割以上の人が医療機関で死の瞬間を迎えることができたのである。そこで本当に死の瞬間が看取られていたかどうかはともかくとしても、場所としての死に場所が医療機関のベッドであるという状態は、8割以上の国民に保障されてたのである。そうではなくなってくるのだ。
死者数が増えるだけ、医療機関のベッド数が増えるわけではない。むしろ減る中で、医療機関は急性期と回復期の患者を治療する場所にシフトしていき、慢性期の患者は地域で暮らすことを求められるのである。そこに実体としての地域包括ケアシステムというものが実際に存在するかどうかは別として、そうしたシステムが存在することを前提に、高齢者で持病を抱えている人も、それだけで入院させてくれる社会ではなくなっているのだ。ましてや死ぬためだけに入院させてくれる医療機関は丼損少なくなる。
そうであるがゆえに、死に近づいている人々が暮らす場所であれば、どこであっても死の瞬間まで、人間と手の尊厳を護り、安心と安楽が保たれながら生きる支援が求められるわけである。それが看取り介護・ターミナルケアであり、まさにそれは生きるを支える支援行為である。